「お彼岸」とは?

「お彼岸」とは?

お墓参りの写真

暑さ寒さも彼岸まで、とよく言います。暦の上では季節の変わり目となる春と秋のお彼岸。日本人にとっては昔から、欠かせない仏教行事として、この期間にご先祖の墓参りをするのが習わしです。けれど、なぜそうするのでしょう。「お彼岸」とは何なのか、その意味を考えます。

先祖を供養し祈ることで通じる浄土への道

この秋の「お彼岸」は9月20日が「彼岸入り」、23日が「中日」、26日が「彼岸明け」。春の「お彼岸」は春分の日を、秋の「お彼岸」は秋分の日を中日として、前後3日間、それぞれ計7日間が「お彼岸」の期間とされています。

これには、「春分の日」と「秋分の日」に昼と夜の長さが等しくなることが大きく関係しています。春分・ 秋分の日は太陽が真東から昇り真西に沈みます。このことから、「西方浄土」への道が通じる、開けると考えられ、それが「お彼岸」の根本になっているのです。

東と西が結ばれる中日に、はるか彼方の浄土に向かって我が先祖に思いをはせ、極楽に自分も行くことができますように、と願いをこめて先祖のお墓参りをする。お寺の法要も含めて、亡き先祖に祈り、感謝を捧げることで、いつの日か自分たちも浄土へ旅立つことを願うという先祖供養が「お彼岸」の考え方です。

本来は此岸から

彼岸に達するための禅定期間そもそも彼岸は「彼の岸」、つまり「悟りの境地、極楽浄土」を意味し、対して此岸(しがん)は「此の岸」、私たちが生きるこの世界、煩悩と迷いがある俗世を表しています。

本来、彼岸の七日間は、此岸にいる私たちが悟りの世界である彼岸に達するための個人の禅定期間をさします。禅定というのは思いを鎮め、精神を統一して寂静の心境に至ることで、つまり、彼岸とは自分を見つめ瞑想して仏道修行をする期間の意味であり、「六波羅蜜」という「布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧」という六つの実践徳目、いわば精神の学びの宿題をこなしていくものです。

彼岸の七日間におこなうわけですが、六つなのに七日間あるのは不思議に思われるかもしれません。それは、真ん中の中日はお休みにしなさい、という仏の慈悲と言えるでしょう。

自分の命をみつめて先祖供養で悟りに近づく

私たちが風習にする「お彼岸」は日本独自のもので、始まりは諸説ありますが、広く日本人に定着したのは江戸時代。民衆が寺院の檀家となった寺請制度・檀家制度ができたことが、先祖供養の行事として広く浸透した大きな要因と考えられます。

一般的には禅定や六波羅蜜の修行を知らないまま、代々受け継がれてきた大事な習わしとして日本人は「お彼岸」にお墓参りをしています。

けれど、この七日間に自分自身を見つめ、自分の命はどこから来たのか、この命は誰の命なのかを考えることは「お彼岸」の本当の目的と合致し、先祖の供養につながります。そうして、お墓参りをして先祖に心から合掌し祈ることで、私たちも悟りの世界に近づくことができるのではないでしょうか。

松尾芭蕉がこんな句を残しています。 「春彼岸、菩提の種をまく日かな」

春の「お彼岸」でまいた命の真理への気づきという種が、秋の「お彼岸」に悟りという収穫をもたらしてくれるかもしれません。

お供えの「ぼた餅」「おはぎ」が表す仏の心

ご先祖に手を合わせると、自分が今生きていることに自然と感謝の念がわきます。それは誰もが持っている仏の心、つまり「仏性」です。
「お彼岸」に供える「ぼた餅」「おはぎ」は、この「仏性」を具現化したものと言えるでしょう。

季節の花にかけて春の「お彼岸」には「ぼた餅(牡丹餅)」、秋の「お彼岸」には「おはぎ(お萩)」と呼んでいますが、形も中身も同様の菓子。小豆あんの中に蒸した白いお米が丸く包まれています。
これは我々の「仏性」のありようを象徴していて、本当は誰にもある真っ白なきれいな仏の心が分厚いあんに隠れているさまを物語っています。

ただ、私たちはふだん、心が厚いよろいで覆われているためになかなか気づかない。彼岸の本来である「六波羅蜜」の六つの行いというのは、まさに、この「仏性」に気づくための一つの実践修行なのです。

ですから、「お彼岸」には目を閉じて深く内省し自己を見つめること。そして、先祖から脈々と続く尊い命を思い、誰もが持っている清らかな心、「仏性」に気づく。「お彼岸」はそういう機会にしてほしいと思います。

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