仏教由来の言葉

仏教由来の言葉

赤鉛筆で描く吹き出し

日本に仏教が伝来したのは6世紀半ば。以来、千五百年もの歳月を経て日本じゅうの民に広まり深く浸透しました。それゆえでしょう。私たちがふだん使っている日本語の中には、もともと仏教が源になった言葉が数多くあります。たとえば、昔、子どもが五十音を覚えるために習った「いろは歌」も「色は匂へど散りぬるをわが世誰ぞ常ならむ・・」というように仏教の教えを説いたものと言われます。そうした言葉の由来を知れば、大事な気づきを得られるかもしれません。

「法螺を吹く」-お釈迦様の説法をさした言葉

日常生活で無意識に使っている言葉には、仏教から派生した言葉がたくさんあります。たとえば、「四苦八苦」は困窮する、大変な苦労をする状態を指して使われますが、これは仏教からの言葉で、「生老病死」という人間が避けることができない「四苦」に、さらに「別離」など四つの苦しみを足して「八苦」、つまり、人が背負う果てしない苦しみと煩悩を意味しています。

一方、私たちが使っている意味と仏教での意味が異なるものがあります。たとえば、「法螺(ホラ)を吹く」というのは、一般的には虚言を吐くという意味で使っています。しかし、「大法螺を吹く」というのはもともと経典の中にある言葉で、お釈迦様が大法を説いた教え、すなわち「説法」をさした言葉なのです。

山伏が吹く「法螺貝」は仏具の一つですが、その大きな音は仏の音であり、驚愕させる音によって、目をさましなさい、しっかり声を聞いてくださいということにつながります。
しかし、庶民の間では、長い歳月の間に「ホラ吹き」「大ボラ吹き」という言葉は話を盛って大げさに立派なことを言う、その嘘っぽい大仰さが強調されて、いわば大言壮語の意味で広まりました。言葉の推移の面白さでしょうか。

「因果」-「因」と「果」の法則で生かされている

さまざまな言葉の原典となるお釈迦様の悟りについて説明をすると、お釈迦様が最初に悟ったのは「縁起」の法則です。「縁」、つまり「因果」。「因果」は仏教に由来した言葉です。

「因果」というと、「親の因果が子に報い」や「因果を含める」というふうに、一般に悪い原因と結果と捉えがちですが、仏教では、すべてのことは「因」があるから「果」がある。すなわち、私たちは多くの目に見えないものに関わり、あるいは支えられていて、その中で私たちは今「生かされている」と考えます。

「生かされている」というのが大事で、「生きている」というと自分一人で生きているわけですが、「生かされている」というと、さまざまな目に見えるもの・見えないもののご縁やまじわり、関係の中で命をいただいている、その因果のありがたさを含みます。今ある事象は必ず「因」があった結果として、今の「果」がある。これは「法則」なのです。

空海は「因果必然(ひつねん)の道理を信じ、自他のいのちを生かすべし、四恩十善の教えを奉じ、人の人たる道を守るべし」と、根本教理で説いています。わかりやすく言えば、物事は因と果によって成り立っていて、それを信じないのは愚かなものよ、と言っているのです。

「因縁」というのも「因縁をつける」=ありもしないような文句を言う、というふうに良くない意味で使われますが、元来は「由来、ゆかり」の意。「因」があり「縁」が生じて「果」につながる、という意味合い。もちろん、これも仏教から派生した言葉です。

何かの力への感謝をこめた「冥加」「冥利」

「冥加」も仏教由来の言葉。「これは冥加なことで」というふうに使われ「大変ありがたい」という意味になります。「冥加にあまる」と言えば、分を超えた果報者です、という意味。どちらも神仏、あるいは誰かのおかげという謙虚な心と感謝の念が感じられます。

また、俳優が思わぬ大役をもらったり、お客に大層喜んでもらったりした時に「役者冥利に尽きる」と言います。「冥利」も「冥加」と同義語と言え、他者が与えたか、何かの力によって得た徳に対し、自分の力だけでここまで来たのではない、という目に見えない力へのありがたみをこめて言う言葉です。

ただ、そうした力を受けるために、さらに、自分もその力を見えない未来に送るために善行を積まなければなりません。日々の善い行ないが目に見えない力となり、いい因となって、必ず未来にいい果を生むことになるからです。

「冥加」「冥利」という言葉を使うときには、この恩をお返ししなくては、という思いが底にあります。なぜなら、いい「因」というのは過去の誰かが作ってくれたもので、今自分が恩恵を受けているのはありがたいこと。だから、私も善行を積んで「果」を「因」として未来の子孫や誰かに送ってあげなければならない。
現代ではあまり耳にしない言葉になりましたが、それは、なにごとも自己本位に考えがちな世相の反映なのかもしれません。

「天上天下唯我独尊」の本来の意味とは?

「天上天下唯我独尊」という言葉はご存知でしょう。釈尊が生まれてすぐ、七歩歩いてそう言ったと伝えられています。ただし、この言葉は「あいつは唯我独尊だ」というふうに、一般的には「この世で自分だけが偉くて尊いとうぬぼれる」という、独善的で傲慢な悪い意味で使われます。

しかし、釈尊が本当にそんなことを言うでしょうか。仏教の根本にある教えは「慈悲」です。「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」としています。他者への救済に向かうというのが仏教の根本精神ですから、自分だけは他と違い絶対的存在なのだというのは、大きな矛盾が生じてしまいます。

以前はどの仏教本にも「釈尊が自分が唯一の悟り者なのだと宣言し、我についてこいと言っている」という意味で解釈されてきました。しかし、それでは釈尊の教えである仏教は成り立ちません。

その解釈が変わってきたのは最近のことです。我が偉いと主張しているように捉えられていましたが、今では、本来の意味はそうではなく、不遜な言葉ではないと考えられています。

「天上天下唯我独尊」の「天上天下」は「平等」、「唯我」は我とみんなは一緒であることを表しています。すなわち、この世界では人は誰もが平等であり、平等に価値は分け与えられていて、人のいのちの尊さに何の違いはない、というメッセージなのです。

決して、誕生間もない釈尊が言ったものではなく、生涯にわたって真理を求め悟り者になる釈尊への崇敬を、後代の仏教者たちが意味付けて言葉にしたのではないでしょうか。誇張した言葉で釈尊は偉大な力の持ち主だと讃えたのだろうと思います。

 

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