通夜とは

通夜とは

葬儀の写真

通夜は現在では葬祭場で行われ、遺族や近しい人以外に一般の会葬者も「通夜式」に参列するというケースが多く見られます。弔問する側にとっては読経と焼香がある「通夜式」がいわゆる通夜であり、仕事などの都合で葬儀に出られないから行くということもあるでしょう。しかし、本来の通夜は遺族や近しい人などごく身内だけでしめやかに行われました。

通夜は故人の声に耳を傾け語り合う最後の夜

通夜では、文字通り一晩じゅう、遺族が線香やろうそくの灯を絶やさず寝ずの番をして見守るのがならわしですが、それも都会ではもうほとんど見られない光景かもしれません。

通夜は何のためにあるのか。それは遺族が故人とすごしお別れをする最後の夜だということです。次の日には骨になってしまう故人に対して、今までの感謝や思い出をかみしめながら寄り添ってあげる。葬儀のあれこれでバタバタし、家族は落ち着いて振り返る余裕もなくすごす中で、静かに故人と共にいられる貴重な時間が通夜なのです。

線香とローソクを絶やさないというのは、ひとつの手立て。大事なのは故人の一番近くに身を置いて会話すること、それが通夜の本意です。

亡くなった故人の声はとても小さく聞こえづらい。でも、近くで耳をすませば聞こえるのです。故人が人生の終幕を受け入れて別れを告げ、心残りにする家族や孫の行く末を思い託す言葉を伝えようとしている。だから、遺族はあくまで故人の一番身近な所にいなければなりません。なぜなら、故人の独り言になってしまうから。これほど寂しいことはないでしょう。

その声に耳を傾けてしみじみと 語らう、そういう精神世界を体験するおごそかな夜が通夜と言えます。線香が切れたら線香をまた立てる、ローソクが終わればまた新しいローソクを立てて灯すという通夜のならわしを通して、故人のそばに居続けることの大事さを示しているわけです。ですから、葬儀よりむしろ通夜の方が大切。通夜ほど、リアリティをもって故人との別れができる時間、故人と向き合える場はないからです。

悟りを開くための戒名で、故人は浄土へ旅立つ

通夜と葬儀の前に、故人は「戒名」(宗派によって法名や法号などもあります)を授けてもらいます。一般的には枕経の後につけてもらい、菩提寺の僧侶にお願いをしますが、菩提寺が遠ければ近くの縁のあるお寺に相談してつけてもらうこともあるようです。

戒名とは、故人が仏の弟子になり仏門に入った証として授ける名のこと。仏教の創始者であるお釈迦様(釈尊)は「仏陀」と呼ばれますが、これは「悟りを開いた人」という意。お釈迦様の俗名はゴータマ・シッタルーダで、悟りを開いて名が変わったのです。

つまり、俗世で暮らす私たちは俗名で生きていますが、亡くなった故人に戒名を授けてもらうのは、その戒名で悟りを開くために浄土の世界に旅立ってください、ということ。それはこの世では悟りを開くことができないからで、人間は生きていく上で常に苦しみがつきまといます。どんな小さなことでも悩み、悲しみや苦しみを背負い不安を抱えてしまう。亡くなって初めて悟りの道が開かれるわけです。

戒名は不要という方もいらっしゃるでしょう。一方で、先祖代々の家系を重んじ社会への貢献度もかんがみて遺族が格の高い戒名を望まれる場合もあります。人それぞれですが、故人の人柄や人生で成したこと、追い求めた夢や大事にした信条など、さまざまに故人を表す文字を名に取りいれた戒名は、位牌や墓石に刻むだけでなく、故人のやすらかなその後を祈る遺族の心にも刻まれる大事な名前なのです。

数珠を手に無限の煩悩をひとつひとつ消すように祈る

通夜や葬儀をはじめとして、仏事に忘れてはならないのが数珠。念珠とも呼ばれますが、一般の人にとってはもっとも身近な仏具と言えるでしょう。とくに通夜や葬儀では、故人への礼儀として、冥福を祈る誠意の表れとして、数珠は必ず持参するべきものです。

数珠は仏教の祈りを象徴するもので、珠の数は本来は百八個。百八つの煩悩を表すとされ、百八つの珠をすることによって、ひとつひとつ煩悩を消すようにお経を唱えてゆくというのが、数珠の本来の意味です。

数珠は左手にかけて合掌しますが、なぜ、左手かというと、仏教が生まれたインドでは、左手は浄・不浄で言えば不浄。宗旨宗派により多少考え方に違いはあるでしょうが、合掌して拝む際には左右の手のひらですり合わせ、焼香の際には数珠を左手に数珠をしっかり巻いて、不浄の手を浄の手に合わせ両手を「浄」の状態にしてお焼香をします。数珠が不浄から守る役割をしてくれるわけです。

そもそも数珠は、地位のあるお坊様が困り果てているのを見たお釈迦様が、百八つの数珠を作って祈れば願いは叶うと説いたことから、後に仏教の 祈りに用いられるようになったと言われます。また、真言を唱えるときに一声ごとに一珠繰って数えるというそろばん的な役目を果たします。

煩悩の百八つとは、インド人の数字に対する世界観を反映していて、実は百八は「無限」を象徴したものです。実際、人間は生きている限り煩悩が消えることはありません。無限に煩悩はあるのに百八つを数えて限定することなどできないのです。

人間には「生老病死」という避けることができない「四苦」があります。さらに「愛する人と別れる苦しみ」など「思い通りにならない」四つの苦しみがあり足して「八苦」。この「苦」を九に置き換え計算すれば四×九=三十六、八×九=七十二、足して百八になります。「四苦八苦」とは人が背負う果てしない苦しみ・煩悩を言い表しているわけです。

通夜や葬儀で数珠を手に合掌することは、故人がそうした一切の煩悩から解き放たれて浄土へ向かう祈りとなります。同時に、我が身の煩悩を少しでも消し去る祈りにもなるのでしょう。

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