年忌供養

年忌供養

青空とお墓

近親者が亡くなると、忌明けの後も、日々、位牌や写真に花や線香をあげる方は多いでしょう。歳月は確実にすぎてゆき、悲しみは少しずつ癒えていきます。そうした中で遺族は年忌供養として一周忌を迎え、やがて三回忌を迎えます。生活習慣や家族の形が変わり、年忌供養に対する考え方も変わりつつありますが、改めて故人と向き合う大切な機会と言えます。

十三仏信仰も関係する「年忌法要」と「弔い上げ」

遺族は翌年の祥月命日に一周忌を迎えるまで、喪中としてすごします。その間に、今ではあまり行われなくなりましたが、亡くなって百日目になる「百か日」の供養をするのが昔からのならいです。

そして、僧侶が読経を行う年忌法要として一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌と続き、地域により多少異なりますが、一般的に関東では三十三回忌を、関西では五十回忌を「弔い上げ」といって最終年忌とします。

とはいえ、二十三回忌、二十七回忌は省かれることが多く、そうなると十七回忌と三十三回の間があいてしまうので、その中間の二十五回忌を営むことも一般的になりつつあります。

よく疑問に思われるのは、三回忌は亡くなって二年後に行うこと。これは数え年と同じ考え方で、数え年は母親のお腹の中で命がめばえて育つ十月十日を含むことが根底にあります。だから生まれた時が一歳になります。同様に、三回忌は死者が浄土に生まれ変わった時を含めて三年と思えばいいわけで、その後の年忌も同じように考えます。

また、百か日と一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、三十三回忌は、死者供養に密接な「十三仏信仰」が深く関係しています。「四十九日・七七日」で七つの仏をお迎えしたのと同様、それぞれに拝む仏さまが違い、たとえば、百か日では観世音菩薩、三回忌では阿弥陀仏、十三回忌では大日如来、とされ、仏さまたちのご加護をもって西方の極楽浄土へ行くことを願うのです。

故人と遺族、双方に再会の喜びをもたらす

年忌供養は遺族が故人を忘れていない証ですが、故人の魂が「私のことを忘れてくれてないんだなあ。ありがとう」という思いの方が強いように思います。そうした故人の声無き声を聞くべきですし、聞こえるはずです。

人は二回死ぬ、と言われます。亡くなっても、人が覚えてるうちはその人はまだ死んでない、人が忘れた時が本当の死だという、体の死に続く、記憶の死。忘れられてしまうこと、誰も思い出してくれないこと、死者にとってこれほど悲しいことはありません。

幾世代も前の先祖ならともかく、亡くなったけれど顔も声も知るおじいちゃんやおばあちゃんの記憶は生かしておかなければいけない。

心の中に貴方は生きています、という意思表示をし、故人を偲び懐かしく再会を果たすのが年忌供養の意義でしょう。死者には忘れられていない、会いに来てくれたうれしさがあり、言葉として発せられないけれど、双方に再会の喜びがあるはずです。

それを心の奥底で感じられるのが日本人の死生観。現代人は失いつつありますが、年忌供養は日本人の精神性を実感する数少ない機会でもあります。

供養で得られる悟りに気づき、持続させること

祥月命日や年忌法要では仏壇をきれいにし、僧侶に読経をしてもらいます。そうして故人を思いながら祈る時間をすごすと、清々しい気持ちになるものです。供養をしてよかったと、それは一瞬訪れる悟りの境地と言えます。

ですが、持続性はありません。だから、お釈迦様は「四無量心(しむりょうしん)」と言って、悟りを持続するために一定の方向性を示しました。「四無量心」とは「慈悲喜捨」という四つの心を常に持っていなさいという教えで、そうすれば、いつも清らかな悟りの境地でいられると。

つまり、他者の悲しみや喜びを自分の悲しみ喜びとして受け止め、雑念を捨て去ることで、他者への慈愛を忘れない精神を持ち続けることができるとしています。瞬間でも悟りを得られたなら、持続するために「慈悲喜捨」を実践することです。年忌供養はそうした精神の高みに気づくきっかけにもなるでしょう。

「般若心経」を唱えるのは供養する側へのメッセージ

僧侶が営む法要では、しばしば「般若心経」を共に唱えます。故人の成仏を祈る追善の意味合いがありますが、「般若心経」は供養のお経ではありません。生きている人間へのお釈迦様の根源的なメッセージです。

内容は、一切の病は煩悩=貪瞋痴(とんじんち 三つの根本的な煩悩)といった心の悪い状態によって起こるとし、基本的にこの世はすべて「空(くう)」であり「無」であり、絶対的に未来に存在するものは一つもない無常の世界なのに、なぜ固執するのか、執着を捨てなさい、それでは幸せにはなれない、と説いています。生きている人間はこうあるべきだと。

「般若心経」をさまざまな仏事や年忌法要で唱えるのは、供養する側の私たちが幸せで健康でなければ、供養される故人や先祖はうれしくないでしょう。遺族や子孫が豊かでより良い心の状態でいることが、供養に結びつくという考えです。

ですから、法要で般若心経を唱えるのはむだではなく、意味はわかりにくいかもしれませんが、仏に通じる言葉は説法に通じているのです。

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