葬儀~四十九日の中陰をすごす

葬儀~四十九日の中陰をすごす

葬儀のイメージ写真

昨今、葬儀や「四十九日」の形がさま変わりしつつあります。とりわけ、都会では葬儀のすぐ後に式中「初七日」が行われるなど簡略化が進んでいます。また、遺族が法要を営む「四十九日」も、三ヶ月にまたぐと「しじゅう苦労が身につく」という俗信から「三十五日」に切り上げることも当たり前になってきました。さまざまな現代事情も反映されているようですが、今一度、浄土へ旅立つ故人と遺族の別れのあり方を、本来の葬儀~四十九日の流れを通して考えてみましょう。

葬儀で僧侶が「引導を渡す」ことの深い意義

葬儀で最も重要な意味を成すのは僧侶の読経。宗派によって異なりますが、葬儀の一連の作法を「引導作法」と言い、僧侶は死者が無事に成仏できるように引導を渡します。

「引導を渡す」とは、日常の中でも最終通告の意味で用いられますが、仏教では極楽往生へと引き導くということを言います。つまり、死者の魂への鎮魂であり、同時に死者に死を認識し自覚してもらって仏に帰依する決意を促すことです。

言ってみれば、貴方は死んだんですよ、と引導を渡して死をはっきりさせる。そうしないといつまでも迷いこの世に未練を残した魂になってしまうでしょう。また、遺族の方にもこの作法を通して導くという意味合いがあります。

葬儀は儀式的な僧侶と故人の魂との会話と言えますが、儀式全体を捉えれば、故人にとっても遺族やみんなにとっても訣別という一つの区切りを持つことができます。だから、葬儀は大事なのです。儀式は故人を送るためだけではなく、送る側にも別れを胸に刻む場になっている。僧侶は葬儀で目に見える人と目には見えない人の仲立ちとして、両方の成仏を祈っています。残された者が愛する人の死を受け入れて、やがて心の安寧を得ることも成仏と言えるからです。

「中陰」では魂が成仏するための修行の世界にある

仏教では、人が亡くなってからあの世へ往生するまでを「中陰(ちゅういん)」または「中有(ちゅうう)」と言い、四十九日間あるとされています。その間、死者の魂は行き先が定まらずこの世でさまよい、四十九日をかけてようやく魂の成仏が完成すると言われます。遺族は忌中としてすごす期間となります。

これが「四十九日」の考え方で、「中陰」とは、まさに仏になるためのお行の最中である世界=「陰」の中に魂はあるということです。葬儀を終えて、遺族が初七日から四十九日(七七日)まで七日ごとに行う法要は、その魂の成仏を援護する祈りなのです。

初七日の数え方はいろいろあるようですが、六日計算と考えればよいでしょう。四十九日の法要を逮夜とも言いますが、逮夜とは必ず前の日にお経をあげることで、だから七日の一日前にお経をあげるのです。たとえば、11月1日に亡くなった方は、その日も入れて六日目は11月6日になり、これが初七日になるわけです。そこからあとは七日ずつ足していきます。

故人の魂と遺族の「成就」を願う四十九日の祈り

故人の魂にとって逮夜は、前日に仏様を迎える心づもりをしておいてくださいということ。初七日には不動明王が寄り添ってくださる。二七日からは釈迦如来もお迎えし、三七日から文殊菩薩、四七日からは普賢菩薩、五七日は三十五日で地蔵菩薩、六七日が弥勒菩薩、七七日=四十九日は薬師如来、というふうに順に迎える仏さまは増えていき、死者の魂を中陰の間じゅう加護してくださいます。

ですが、仏さまのお力を借りしながら、何より死者の魂の力になるのは、現世から後押しする遺族の祈りでしょう。

すべて七が基本になっているのは、お釈迦さまが生まれたインドの人の世界観。七は物事が成就する数と考え、何か完成させたい時に「七」を基数にして七の何倍というふうに使っています。四十九日とは、完成数七の満数で絶対的完成、つまり「悟り」を意味している。ですから、亡くなった人はもうこの世の人間じゃなくなったと悟り、残って生きている者にはその人の死を受け入れるという悟りがある。という、双方の成就を願ったのが「四十九日」なのです。

大変だからこそ、七七日の時間がすごすことが大切

インドの仏教には「四十九日」はありません。中国の儒教思想の影響を受けた日本独特のもので、過ごし方に違いはありますが、宗派に関わらず共通した弔いの考え方です。

亡くなった人の成仏の完成と、遺族にとっての別れの節目を意味するのが四十九日です。そこで成就することはないでしょうが、そうなって欲しいという祈りがあります。

四十九日を迎えると「忌明け」となり、「中陰」が満了したということで、会葬者に「満中陰志」を配ります。これはようやくこの魂は浮かばれます、成仏できました、死者にとっても遺族にとっても大変な中陰を乗り越えられました、というめでたいお礼なのです。

ただ、今では三ヶ月にまたがるとよくないという俗信から、三十五日(五七日)で終え忌明けとする場合が多くなっています。さらに、この五七日に現れる地蔵菩薩は本地垂迹説では閻魔さまであるため、最終のお裁きをするのではという解釈で省略化が広がりました。

三十五日で成仏されたというなら、遺族の方は一定の別れはできると思います。ですが、三十五日で忌明け法要をし遺族の祈りもそこで終わってしまっては、四十九日の意味を失ってしまいます。

大切なのは七七日=四十九日という時間をすごすこと。四十九日間でしっかりと故人との別れをし、魂も人との別れをする。人の心はそう簡単に悲しみから立ち直れません。双方が死を受け入れるために日々の時間は絶対必要なのです。

その祈りこそ喪失と悲嘆を乗り越える「グリーフケア」

「さようなら」という言葉は「左様ならばお別れしましょう」ということから来ています。一つの区切りをつけて先行きに見通しがつき、次に再生するときの言葉です。四十九日を終えたということは、まさに「さようなら」ができたということ。忌明けとなるひと区切りが救いにもなり、悲しみと寂しさを背負いつつも家族が新しい一歩を踏み出す、再出発することができるわけです。

それでも、何年も故人に対する悲哀を持ち続ける人はたくさんいらっしゃる。近年さかんに言われている「グリーフケア(グリーフワーク、モーニングワーク)」は、人が喪失の事実を受け入れ、悲嘆の苦しみを乗り越えていくためのさまざまな行為を指しますが、四十九日の祈りこそ、グリーフケアと言えます。

魂の成仏と冥福を祈りながら、亡くなった人が生きた意味と自分の命の意味を考える。そうして、生に感謝し必然の別れを認めることで、これからの人生の前向きな意義を見つけるきっかけにもなる、そういう特別な期間だからです。

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